【中川正志(タダシマン)物語:ルーツ・挑戦・そして今】
1966年2月2日、岡山県岡山市に生まれる。血液型A型、水瓶座。4人兄弟の長男としてこの世に誕生——それが私、中川正志(タダシマン)です。
私のルーツは、九州と東北にまたがっています。父方の祖父は熊本県出身、祖母は新潟県の出身。父は熊本で生まれ育ちました。戦争の影に翻弄され、一時は行方不明になっていた祖父が、ある日突然岡山に現れたことから、家族全員が岡山へと移り住むことになります。
一方の母は、宮城県で生まれ、幼くして父を亡くしました。わずか15歳で東京に集団就職し、社会の荒波に飛び込んでいきました。生きていくために。そんな時代背景でした。
父と母は東京で出会い、結婚。その後、岡山へと戻り、1966年2月——私がこの世に生を受けました。
【虚弱体質の少年が、白球に賭けた理由】
私は幼少期から病気がちで、特に小児喘息に悩まされていました。夜な夜な病院に運ばれる日々。そんな私を少しでも丈夫に——と願った両親の想いが、私を野球の道へと導いてくれました。
始めたのは9歳の頃、ソフトボールからでした。身体は決して強くなかったけれど、誰よりも真剣にボールを追いかけました。苦しくても、走った。咳が出て息苦しくても投げて走った。中学・高校へと進学して野球を続け、18歳まで甲子園を目指してバットを握り続けました。
残念ながら、憧れだった甲子園の土を踏むことはできなかった。希望していた就職先にも甲子園枠での採用のみと言われ願いは叶いませんでした。最後に選んだのはある片田舎にあった工場。ここから社会人となった私の「人生の実戦」がスタートします。
【野球でつかんだ、最初の自信】
工場ではじめての寮生活。知らない土地で、知らない人たち。しかし、そこで再び野球が私の人生に光をくれました。
会社の実業団チームに加わり、その当時Bクラスだったチームを県のAクラス昇格へと押し上げる活躍でチームに貢献ができた。甲子園には届かなかったけれど、この経験が私に「自信」と「リーダーシップ」を教えてくれました。
夢と希望に満ちた社会人生活の幕開け。そしてこの先、幾多の挑戦と挫折を経て、起業家としての人生へと進んでいくことになります——でも、それはまた、別の章に続く。。。
【宿命を背負った幼少期・中川正志の物語】
〜第一章:生きること、それがすでに闘いだった〜
【2歳の夏、最初の闘い】
まだ言葉もうまく話せなかった頃。真夏の海水浴場で突然、私の顔色が失われた。緊急帰省、そして即手術。診断は「脱腸」(笑)。小さな身体の一部が異常に腫れ上がり、周囲の大人たちも顔を青ざめさせた。「宿命を背負って生まれてきたのかもしれない」大袈裟に思うかも知れないが、その後の様々な出来事への始まりだったのです。
【幼少期の夜を支配した喘息との戦い】
さらに私を苦しめたのは、幼少期の喘息だった。我家には車がなかった。それでも両親は、発作が起きるたびに、冬の夜の冷たい風を切って自転車で病院へ向かった。何度も、何度も。ある夜、父は悟った。「もう……ダメかもしれない。。。」息も絶え絶えになった我が子を見て、静かに、顔に布団をかけた。私の呼吸音が——止んだ。絶望を抱えながら布団をそっとめくったその瞬間、私は、スヤスヤと静かに眠っていた。まるで、すべてを乗り越えたように。その時、一体何が起こったのだろう。。。
1969年 3歳 富保育園に入園。私は、岡山の片隅の小さな町で育った。人懐っこく、元気だけが取り柄の少年だった——あの日までは。
1972年 6歳 市立石井小学校に入学。地域の自然と人のあたたかさに囲まれ、私は少しずつ世界を知り始めた。友達と走り回り、泥だらけになっては笑っていた。だが、運命は私にやさしくはなかった。
1975年 9歳 ソフトボールを始める(スポーツ少年団に入団)。呼吸困難に苦しみながらも、私は「走ること」を選んだ。病弱だったからこそ、強くなりたかった。誰よりも、元気になりたかった。ボールを追いかけながら、私は、自分の足で人生を歩む術を学び始めていた。
1978年 12歳 市立石井小学校卒業。まだ何者でもなかった私。だが、**"生き残った者だけが見られる景色"**を、私はすでにいくつも見ていた。そして——中学野球という、新たな闘いと挑戦が始まる。
【語れない青春が、今の自分をつくった】
1978年 12歳 市立石井中学校入学(野球部)。中学に入るとすぐ、野球部の門を叩いた。だが、待っていたのは、"部活"の枠を超えた上下関係の地獄だった。恐ろしい先輩たち——その存在が日常だった。今でも忘れられない数々の出来事。だが、文章にするにはあまりに生々しく、あまりに重たい。記憶は、心の奥にそっとしまってある。思春期。知りたくなかった現実を、肌で覚えた。「大人たちの建前」と「現場のリアル」のギャップに、早すぎる目覚めを経験した。ここでも、語れないことばかりだった。
1981年 15歳 私立岡山理科大学附属高校入学(野球部)。高校進学を目前にして、人生初の"選択"を迫られた。夢はある、でも偏差値はない。結局、担任と進路指導の先生が「数字」で決めた進学先。納得できなかった。けれど——ひとつだけ、自分の中に確固たる意思があった。「野球で甲子園に行ける学校に行く。」その一点だけは、譲れなかった。
1984年 18歳 私立岡山理科大学附属高校卒業。高校時代もまた、語れない日々の連続だった。野球に全てを賭けながらも、心は揺れていた。自由だった。でも、自由すぎた。いや、自由を履き違えていたのかもしれない。けして人に語れる青春ではなかった。誇れるような成績もなければ、賞状もないけれど、私には生きた記憶がある。数えきれない"痛み"と"未熟さ"と"悔しさ"——かつて恥じていた過去すら、今は自分の財産だ。語れる過去よりも、語れない過去にこそ、本当の物語がある。誰にも言えない、でも確かにそこにあった青春。それを乗り越えてきた自分が、今ここにいる。
【転んでも、ただでは起きない。波乱万丈、私の履歴書】
1984年、18歳 株式会社ワタナベ工業に入社。世間知らずで右も左もわからなかったが、とにかくがむしゃらに働いた。…が、程なく1年で退社。その失敗から学んだのは相手に対するリスペクトだった。詳細は語れないが、若さゆえの熱量が行き過ぎた。その後、心を入れ替えて父の職場で働く。時代はバブルの真っ只中。
1986年から1991年にかけて、日本中が浮かれていた。24歳で株式会社ダスキン岡山に転職。サラリーマンとしての基礎を学ぶが、27歳になると「このままで終わりたくない」というアラサー特有の上昇志向に火がついた。再び父の職場に戻り、技術と信頼を重ねていく。
そして1996年、30歳。「吾・・・三十にして立つ・・・」に憧れ、自らの名刺を作った——サンセイ工業を設立。だが、翌年には廃業を決意する。現実の厳しさを知る。
1997年、サンエイ美工に入社。名だたる大手メーカーのプラント塗装工事の現場を任される。現場管理者として、多くを学び、多くを乗り越えた。
2000年、正義感が仇となり退社。34歳にして再び独立。建創プランニングを起業するも、手形詐欺に巻き込まれ廃業を余儀なくされる。痛みを知り、裏切りを知った35歳の春だった。それでも歩みは止めない。セフティ社に入社し、泥水を啜るように、今の人間社社会を学び直した。しかし、2004年に再び"色々あって"退社。もうサラリーマンには戻らないと心に決めた。おそらく雇われの身は私には合わないのだろう。
2004年秋、内職工房「エヌ・ファクトリー」起業。翌年に法人化し、2006年には株式会社化。"家内工業"から"町の産業"へ。地域に根ざした事業に育て上げた。リーマンショックの荒波も経験。
2014年には、個人情報にまつわる社会的事件で業界に激震が走るも、それすら糧とした。そして同年10月、株式会社クレオ・ヴァローレを設立。飲食業とクリエイティブ事業を柱に掲げ、翌年、奉還町商店街にカフェをオープン。だが2020年、新型コロナウイルスの直撃を受ける。それでも負けないと決めた。同年2月、リユースショップをオープン。しかし翌年、商店街での事業からの撤退。常に攻め、時には潔く退く。それもまた信条とする。
そして2026年、60歳。多くの出会いから世界市場に目を向けてみようと決意。新しい出会いが、人生の新章を開いた。世界190ヶ国以上を舞台に、ジャパニーズカルチャーを発信するECショップを開設。もう、迷わない。もう、振り返らない。60歳にして、私はようやく「自分のやるべきこと」が見えた。世界に日本文化を届けたい。それが、これまでのすべての経験への答えだ。私は未来への時間に投資したい。どこまでも未来志向で自分の現在地を見つめていたいと思う。